肥田舜太郎 [セミナー、他の料理教室]
日本では内部被爆研究の第一人者と言われる 肥田舜太郎さん です。
1月に、息子が通う学校で 彼の貴重な講演を聞く機会がありました。
95歳という高齢にもかかわらず、いまだに現役で活躍なさっています。
背筋がピンと伸びて姿勢がよく、その体勢を崩すことなく、立ったまま2時間ほどの間、しっかりとした口調で、聞く人たちを虜にしてくれました。
肥田さんは 広島の原爆投下時に若き軍医として働いていました。
その当時は見るも無残な怪我人、病人が毎日、次から次へとやってきたそうです。
そのうち、何の怪我もしていないのに、紫斑が出て、大量の出血をする人たちを目にするようになります。
しばらくすると、原爆時には広島にいなかったけれども、投下後に広島に入ってきて、同様の症状を見せて死んでいく人が どんどん増えていきます。
原爆などという未知の爆弾による症状ですから、何が何だか分からず、既存の治療法もなく、当時は途方にくれながら多くの原爆患者さんの診療に当たったそうです。
そんな状況で、このような患者さんをたくさん診てきて 肥田さんは 「内部被爆」 というものの存在に確信を持つようになります。
ところが、信じがたいことですが、この未知の症状を治療する研究は、進めることができなかったのだそうです!
敗戦後、アメリカから日本にやってきたマッカサーは、占領下の初期方針を発表しました。
原爆は米国の軍事機密であるから、その被害に関しては、書いたり、研究したりしてはいけない、違反した者は厳罰に処すという、方針を打ち出したのです。
日本はそれに屈服してしまい、被爆の研究は進められなかったのです。
肥田さんは、それが悔やまれてしかたがないと おっしゃっていました。
日本は世界で唯一の被爆国です。
ですから、日本は被爆の研究も進んでいて 1年前の福島原発事故でも、その研究結果を駆使し、被害を最小限に抑えられるのではと思っている外国の方も多いのだそうです。
ところが、災難転じて福となすことはもちろん、 広島、長崎の原爆投下から何のレッスンも学ぶことなく、現在に至っているのです。
肥田さんは もし、原発投下後に それなりの研究がなされていれば、内部被爆の実態もある程度解明されていたであろう、 そして福島原発後に、多くの人々がさいなまされている不安を 膨大に軽減できたのではないだろうかというようなことも お話なさっていました。
原爆投下後のそのような経緯を、私は全然知らなかったので、肥田さんのお話を聞いた時は、衝撃を受けました。
日本は、長い歴史の中で、徐々に徐々に変わってきましたが、第二次世界大戦後からは、驚くばかりの早さで、変化してきています。
食生活にいたっては、それが一番 顕著だと思います。
戦後、アメリカの食品がどっと押し寄せ、肉、乳製品、パン、砂糖たっぷりのお菓子類が、日本人が長い歴史の中で摂り続けてきた 日本人の体に合った食事に、取って代わるようになってしまいました。
その大きな要因として、給食があると 私は思います。
子どもたちの給食に、牛乳やパンが導入したことによって、より早く全国規模でアメリカの食事が日本に浸透していったのではないでしょうか。
戦争に負けてしまい、食料も乏しかったから仕方がないと考える人もいるかもしれませんが、あるところでストップして、見直すことはできなかったのでしょうか?
いまだに、日本人は、日本食も好きで、毎日 何かしら日本食を食べている人がほとんどでしょう。
でも その割合は減り、質も昔とは比べられないくらいに 落ちてしまいました。
たとえば、お味噌ひとつとってみても、昔は味噌と言えば、その材料は 麹(米麹、麦麹、豆麹など) と大豆と海塩だけ、そして 樽の中で最低1年は発酵させて、作られていました。
ゆっくりと熟成していくので、体にいい酵素もたくさん生成されます。
ところが、スーパーなどで一般に売られている味噌は、添加物が入っているものがほとんどで、入っていないものでも、どんな大豆が使われているかもわからないし、塩は一般的に自然塩は使われていません。 熟成期間も短いので、本当の味噌と比べたら、酵素もずっと少ないと考えられます。
いくら、味噌が体にいい、体にたまった放射能を排出してくれるといっても、このような味噌では、効果も期待できません。
変化するのは世の常ですし、好ましくない慣習などを変えていくのは いいことだと思うのですが、軽々しく新しいものに飛びついて、大事なものを捨て去ってしまうのは とても愚かなことに思えます。
その国やその土地で昔から食べられてきたものは、いいものだから、代々 作り続けられ、食べられてきたわけです。
そんないいものは、ずっと守っていきたいものです。
肥田さんの広島原爆投下のお話を聞いて、 こんな思いを強くしました。
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